数年前から「ヒョーゲンアソビノバ」という子ども向けイベントに関わらせていただいています。このイベントは主催の青木さんや多くのスタッフの皆様とともに試行錯誤を重ねてできたもので,幼児音楽教育のあり方として理想的な場の一つだと自負しています。そこで,ここでは「ヒョーゲンアソビノバ」がなぜ「幼児音楽教育のあり方として理想的な場」だと言えるのか,僕の考えを書いてみたいと思います。
1. 幼児教育と早期教育の違い
幼児教育という言葉は,多くの人に早期教育を想起させるようです。幼稚園の生活発表会等で4歳とか5歳とかの小さな子どもがビシッと鍵盤ハーモニカを構え演奏している姿を見て,立派になったなぁと保護者が感動する,という構図はよくあります。また,ヤマハ等の音楽教室の現場には幼児に対してピアノを教えるメソッドが蓄積されているようで,幼稚園児でも僕よりピアノを上手に演奏する子どもはたくさん存在します。そのような経験を積んだ子どもたちは,小学校に入学して音楽の授業を受けている時も,きちんと授業規律を守り,正確な音高で歌唱し,リズムに合わせて楽器を演奏できるでしょう。
しかし,一見すると華々しいこれらの教育実践は,近年の教育学や発達心理学に依拠して策定された幼稚園教育要領が目指す「良い幼児音楽教育」とは一定乖離している,といっていいと思います。もちろん,実践の一部だけを切り取って教育の質を議論することは到底出来ないわけで当然ケースバイケースですが,あくまで一般論として,「幼児の主観的経験の外で体系立てられた複雑な知識や技能を教える」ような実践は,ごく特殊な状況を除けばあまり妥当だとはいえません。
幼児教育においては,子どもの発達段階を考慮して,子どもが環境に対して主体的に興味を持つこと,環境との関わりの中で様々な事象についての理解を築いていくことが重視されます。したがって,幼児教育の現場においては,子どもの主体的な遊びこそが学びのプロセスそのものなのです。幼稚園において,子どもは園庭やお遊戯室で好き勝手に遊んでいることが多いので,小学校以降の先生がみたら「これのどこが教育なのだろうか…」と思うことでしょう。しかし,「子どもがなにかに夢中になって遊んでいる」という状態は,(あまり単純化は出来ませんが)子どもが世界について学んでいる,ということなのです。
では,単に子どもを放置しておけばいいのかというとそうではありません。幼稚園の先生方は,子どもにはいろんな物事に興味を持ってほしい,と思って現場で働いています。毎日砂場で夢中になって遊んでいる子どもがいたとしたら,その子の興味を尊重しつつも,「砂場遊びをもっと深めてほしい」「とはいえ音楽にも興味をもってほしい」「運動もしてもらいたいな」「お友達との会話も楽しんでほしいな」と考えている。しかし,保育者が「もう手で掘るのは辞めて,つぎはスコップ使ってみようか」といって無理矢理に遊びを誘導したり,「砂場は一旦終わり!今度は鍵盤ハーモニカに興味をもってくださいね」といって強引に興味の対象を代えさせたりしては子どもの主体性が阻害されてしまいます。では保育者は「子どもの関心が広がり深まっていくプロセス」にのようなプローチで貢献できるのでしょうか?
2. 「環境を通した教育・保育」
それは端的にいって,子どもが夢中になって遊んでみたくなるような環境を整えることによって達成されます。幼児教育では,「環境を通した教育・保育」という言い方がされていますね。子どもに音に興味を持ってもらいたかったら,音の出るモノを子どもの視界に入るようそっと置いておく。あるいは,音の出るモノで楽しそうに遊んでいる大人の姿をさり気なく見せる。ものすごく単純なことのようですが,これが実際結構難しいのです。大人はつい子どもに何かを教えたくなってしまいます。子どもが鍵盤ハーモニカの質感や色や重み,鍵盤の手触りに興味を持っているとき,「ここを加えてここを押すと音が出るんだよ,ドは親指で押さえてごらん,こうすればカエルの歌を弾けるよ」と教えてしまう。そのような関わりは,子どもがもっていた視覚的・触覚的興味を霧散させてしまうかもしれません。保育者には「子どもは今何に興味を持っているのか」「その子の興味がより深まるにはどんな関わりが効果的なのか」という難しい問いと向き合うことが求められているのです。
さて,長くなってしまいましたが,「ヒョーゲンアソビノバ」は,以上のような幼児教育観を十分に踏まえたうえで「子どもがやりたいと思ったことを自由にやれる場」を作ろう,というコンセプトで運営されています。「ヒョーゲン」という言葉が示唆しているように,このイベントでは,音や色・線・形,あるいは身体の運動性そのものに関わりながら遊ぶための環境が整っています。具体的には,打楽器や音の出るモノが大量に置かれている音ゾーン,体を動かしやすいマットが敷かれている身体運動ゾーン,水性ペンと白い紙が敷き詰められているお絵かきゾーンがあり,子どもはそこで思い思いに遊べるようになっています。また各ゾーンには,演奏家やダンサー,画家が駐在しており,それぞれ気の赴くままにパフォーマンをしたり子どもと遊んだりしています。僕はベースを持っていっているので,好きに即興演奏をしたり,子どもの様子を見ながら打楽器を触ったりしています。さらにさらに,各ゾーンの間には保育士資格をもつスタッフが複数名いて,危険な事態が起きないよう配慮したり,子どもが口に入れたものを消毒したり,あるいは乳児を抱える保護者が席を離れたいときに子どもを見たりしています。
3. 大人にとっての「自由の体験的理解」
重要なのは,パフォーマーと保育スタッフが「子どもがやりたいと思ったことを自由にやれる場」というコンセプトを共有している,ということです。「ヒョーゲンアソビノバ」では,このコンセプトの共有をとても丁寧に行ってきました。したがって,ここでは,大人が子どもに何かを教えたり,禁止したりすることはありません。危険なこと以外なら,子どもが何をやっても大人はそれを見守る,という関わりが徹底されているのです。この「子どもになにかを強いない」というのは意識さえすれば誰でもインスタントにできるものではありません。大人はその成長過程で様々なイデオロギーを内面化しています。したがって,本質的には何も悪いことではなくても「それはダメ!」とつい言ってしまうのです。ヒョーゲンアソビノバでは保護者の方にも「ここは危険な事以外は何をしても良い場です」のようなアナウンスを事前にするのですが,それでも初めて参加される保護者の方は子どもが大きな音を出して太鼓を叩いたりしていると「そんな大きな音出しちゃだめよ」という顔をしたり,実際に子どもを止めたりしがちです。「何をやってもいい」とわかってても内面化された規範意識が反応してしまうんですね。しかし,何回か参加していると保護者の方もだんだんと「本当に何をやってもいいんだ」と腑に落ちるのか,子どもの遊びをいい意味で放置するようになっていきます。僕はこういう現象を「自由の体験的理解」と呼んでいます。「ヒョーゲンアソビノバ」は,「自由の体験的理解」をこれでもかと経験してきたパフォーマーやスタッフが,それを保護者にも追体験してもらおうと試みている場でもあるわけです。小さな子どもは本来的に自由に振る舞うことができる場合が多いですが,大人はなかなかそれができない。しかし,大人は子どもに重大な影響を与える環境でもあります。子どもに関わる大人が「自由の体験的理解」に至るのことは,実はとても重要なことなのです。
したがって,僕が子どもに打楽器の演奏方法を教えることはありませんし,ダンサーが振り付けを指導することもありませんし,画家が写実的な表現のコツを教えることもありません。パフォーマーも子どもの主体的な興味を喚起する環境であり,指導者ではない。そのためにはパフォーマーはある意味で子ども以上にその場を楽しんでいる必要があります。パフォーマーの役割とは,音や形や運動に関わりながら「自由」を楽しむ姿を見せることなのです。
今ではこのような場のあり方はパフォーマーやスタッフに十分に共有されていますが,このようなスタイルで実施するようになるまでにはいろんな紆余曲折がありました。今回はそのあたりは省略します。とにかくいろいろとこだわってやっている,ということをご理解いただければ幸いです。
そして,2年くらいかけてブラッシュアップしてきた「ヒョーゲンアソビノバ」がなんと名古屋に進出します!
ヒョーゲンアソビノバを兵庫と大阪以外でやるのは初めてで,また個人的には名古屋はこれまで行く機会の少なかった都市でもあります。いろいろ楽しみ!
そしてその2日後には普段からよくやっている茨木でも!
ということで,個人的推しイベントである「ヒョーゲンアソビノバ」について紹介させていただきました。基本的には子どもと保護者を対象とにした企画ですが,幼児教育に関心のある方の見学ももしかしたら可能かもしれませんので,気になる方は長谷川までお問い合わせください。
問い合わせ先:
haseryomusic@gmail.com
https://lin.ee/Ej4S2Dk(公式LINE)
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