関西で活躍中のサクソフォニストであり10年来の友人でもある崔勝貴氏のリサイタルに記事を寄稿しました。僕が誰かのコンサートに原稿を書くときはそのほとんどが曲目解説なのですが,今回は趣旨を変えてインタビュー記事を作成してみています。ここではそのことについてつらつらと思いを書いてみます。
「メディアとしての演奏家」からの逃走
一般的にコンサートは「楽曲」を聴くための機会であると捉えられています。そして,演奏家の仕事は過去の偉大な作曲家が精魂込めて作った「楽曲」をこの世に現前させることであるとされます。つまり,演奏家とは「楽曲」を聴衆へと伝達する媒体(メディア)なのだ,という価値観が多くの人に共有されているのです。一般的に,多くの人はメディアに主義主張を求めません。「楽曲」を透明に伝達してくれるメディアとしての演奏家は,偉大な作曲家をそのまま現代に降霊させることのできる職人的音楽家として,これまで重宝されてきました。
したがって,ほとんどの演奏家はステージで多くを語りません。声優がアニメキャラクターの印象に影響を与えないためにプライバシーを隠すのと同じように,演奏家の主観や普段の素行は聴衆の鑑賞体験に余計な色を付けてしまう,と考えられてきたのでしょう。演奏家の声は,「楽曲」を透明に再現するために積極的に秘匿されてきました。
しかし,そのような再現芸術文化のあり方に,僕は以前から少々疑問を感じていました。社会学者のクリストファー・スモールが指摘したように,音楽とは「楽曲」ではなくその「楽曲」を用いて行われる出来事としてのパフォーマンスです。演奏家は「楽曲」を再生するためのメディアではなく,独自の価値を創出できるアーティストです。現代のコンサートにおいては「主体としてクラシック演奏家」がもっと尊重されるべきではないか。そのような漠然とした思いがありました。
そこで,今回原稿の依頼を頂いたとき,「楽曲や作曲家についての解説を書いても仕方がない,コンサートという場に何か文章が必要なのだとしたら,それは演奏家の声を再構成したオープンなテクストなのではないか」と思い,僕から依頼主にそのように提案しました。演奏家の透明化に加担する文章ではなく,演奏家という主体にフォーカスが集まるような文章を書きたい。それが僕の意図でした。
「奏でる者」としてのサクソフォニスト
今回リサイタルをする崔氏は,まさにメディアではなくアーティストしてのパフォーマンスを実現するのことのできる稀有なプレイヤーです。そしてこれは,彼が「楽曲」に対する真摯で透明なアプローチを蔑ろにしている,ということを意味しません。むしろ,「楽曲」に対するどこまでも研ぎ澄まされた透明な眼差しがあるからこそ,チープな慣例主義を超えたパフォーマンスを生み出すことができる。彼の演奏には,「クラシック演奏家のパフォーマンスは再現なのか創造なのか」という二項対立的議論を軽々と越えてしまうような魅力があります。優れたプレイヤーの演奏は「楽曲」の価値を丁寧に取り出すのみならず,そこに価値を加えることができる。そして,そのようなアーティストとしての仕事を可能にするのは演奏家自身がもつ音楽に対する豊かなパースペクティブです。
寄稿した記事のタイトルは「奏でる者のサウンドスケープ」。「奏でる者=メディアではなくアーティストとしての演奏家」が身体で捉える「サウンドスケープ(音風景)」を対話によって言語化したテクスト。今回の試みは僕にとってもクラシック音楽に対する一つの実験です。そして,この試みを最初に実行するのにふさわしい場があるとしたら,それは稀代の「奏でる者」である崔氏のリサイタルだろう,と勝手に想像していました。このような試みに快く乗っかってくれた崔氏には心から感謝しています。
当日は僕も聴きに行く予定です。是非会場でお会いしましょう。
崔勝貴 サクソフォンリサイタル 2024
日時:2024年10月2日(水) 19時開演
会場:兵庫県立芸術文化センター 神戸女学院小ホール
料金:全席指定 一般¥5,000 大学生(25歳まで)¥4,000 高校生以下¥3,000(未就学児入場不可)
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